昨夜のこと。遅い時間の帰路、sora氏、H先生、そして今年から総研大に進んだK君と一緒になった。ライブショー繋がりの面々がこんな所で揃うのも珍しい。それも、相当濃いライン。バスの中で話題に上ったのは、またしてもゼーガペイン。先日の上映会以来しばしば取り上げられている。地上波オンエア当時は殆ど注目を集めなかったというが、SFに詳しい人々がこれだけガッツリ食いついているのだからやはり力のある作品なのだろう。「これから冬の時代―大きな作品が出ない時期―が数年続いてもこれがあれば暫く大丈夫」というくらいらしい。今年の星雲賞にも候補に上がっているとか。
そう言えば、こんな光景はいつぞやとそっくりだ。
女性から見ると、カミナギ・リョーコは印象の良くないキャラクターらしい。男性に最適化された行動をとっているとのこと。ストーリーに対するソゴル・キョウの行動―そして同じ視点を想定される視聴者―を誘導するために、主人公側から要求され易いシンボリックで“優等生”的なあり方を設定されてしまっているのだろうと思う。この辺り、ライターが男性だと安易に割り切ってしまう都合の良さが、女性の生身の感覚からは鼻に付くのだろう。確かに、必要以上にべったりしている気はする。リョーコはキョウが置かれる状況を作り出し、動機を喚起するキーだからこそ、塩梅が難しいのか。
sora氏が批評する、新海作品における女性キャラクターの“希薄さ”というものも、同じように状況に支配された合目的的な人物造形という点で同根なのだろうと思う。特に、シチュエーションこそが主役で主人公に内向する性向が顕著ならば猶更、対象を単純化してしまいがちなのかも知れない。
極めて自立的な価値観と行動様式を与えたキャラクターを同時に独立に行動させるのは、難しい。主人公と、それと対置され比較されるような人物の二者、或いは撹乱的ギミックとして与えられるような第三の勢力、というように少数を限定して描き分けるケースが多いのではないだろうか。それ以外のサブキャラクターの“自我”は、フォーカスされる一時のみ繋いでいけば何とかなるが、無数の存在を終始自律させながら一つの舞台にコントロールするのは至難に近い。「書け」と言われても、多分相当辛い。多かれ少なかれ、流れの為の記号化と役割付けを持ち込まずには済まないだろう。
今後の場面で色々と考えるべきことに思い至る話だった。もっとも、話題の中心はSF部分だったのだが、それは結構どうでもいい。
ところで、私はそれ程カミナギ・リョーコを贔屓していなくて、どちらかと言うとずっとミサキ・シズノをヒロインとして捉えていたのだが、造作の好みとかではなくて、やはり終始漂う強い喪失感にこそ物語への動機があるのだと思う。多分。

そう言えば、こんな光景はいつぞやとそっくりだ。
女性から見ると、カミナギ・リョーコは印象の良くないキャラクターらしい。男性に最適化された行動をとっているとのこと。ストーリーに対するソゴル・キョウの行動―そして同じ視点を想定される視聴者―を誘導するために、主人公側から要求され易いシンボリックで“優等生”的なあり方を設定されてしまっているのだろうと思う。この辺り、ライターが男性だと安易に割り切ってしまう都合の良さが、女性の生身の感覚からは鼻に付くのだろう。確かに、必要以上にべったりしている気はする。リョーコはキョウが置かれる状況を作り出し、動機を喚起するキーだからこそ、塩梅が難しいのか。
sora氏が批評する、新海作品における女性キャラクターの“希薄さ”というものも、同じように状況に支配された合目的的な人物造形という点で同根なのだろうと思う。特に、シチュエーションこそが主役で主人公に内向する性向が顕著ならば猶更、対象を単純化してしまいがちなのかも知れない。
極めて自立的な価値観と行動様式を与えたキャラクターを同時に独立に行動させるのは、難しい。主人公と、それと対置され比較されるような人物の二者、或いは撹乱的ギミックとして与えられるような第三の勢力、というように少数を限定して描き分けるケースが多いのではないだろうか。それ以外のサブキャラクターの“自我”は、フォーカスされる一時のみ繋いでいけば何とかなるが、無数の存在を終始自律させながら一つの舞台にコントロールするのは至難に近い。「書け」と言われても、多分相当辛い。多かれ少なかれ、流れの為の記号化と役割付けを持ち込まずには済まないだろう。
今後の場面で色々と考えるべきことに思い至る話だった。もっとも、話題の中心はSF部分だったのだが、それは結構どうでもいい。
ところで、私はそれ程カミナギ・リョーコを贔屓していなくて、どちらかと言うとずっとミサキ・シズノをヒロインとして捉えていたのだが、造作の好みとかではなくて、やはり終始漂う強い喪失感にこそ物語への動機があるのだと思う。多分。

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