Muss es sein?
Looking for something that let me say "Es muss sein".
ローマ帝国概史
年末年始の休みは常よりもテレビ番組を見ている。雑学番組やら教養番組やら、新年になると日本人は急に勤勉になるのか。『ローマ帝国1000年史』の特番を見た。『ローマ人の物語』を土台に映像化しているということで注目。“ローマ帝国”の最後というと15世紀のビザンチン(東ローマ)滅亡まで含みそうな所を“ローマ的なローマ世界”の終焉として西ローマまでを通史の範囲として、最大版図を有し最盛期とも言える“終わりの始まり”五賢帝時代さえスルーに近い、帝政成立期に重心を据えた配分。ハンニバル戦記、“勝者の混迷”の一連の著述、ユリウス・カエサル、アウグストゥスを重要視する人物評やら事象の見解やら、塩野七生のローマ観への忠実さが読者には良く分かる。ただ、カエサルが驚愕した“ブルータス”は、マルクスでなく信を寄せた幕僚デキムスだという説ではなかったろうか。

歴史上の状況を現代に類比させ、警鐘として匂わせるのは陳腐な演出だが、山積する社会問題に対して議員政治が庶民の快哉を呼ぶような快刀乱麻の解決を果たせない中で、有為の人材の独裁的効率的権力によるドラスティックな改革を待望するような視聴者が生まれたら、それは「戦争でも起きてしまえ」と嘯くのと同じだけの愚かしさだ。これまで積み上げられた人間世界の自己統治の努力を馬鹿にしている。ここでアンチテーゼに『銀英伝』辺りを思い浮かべる所で説得力が乏しくなるが。

まさに肝心なのはその点であって、専制政治の罪とは、人民が政治の害悪を他人のせいにできるという点につきるのです。その罪の大きさに比べれば、百人の名君の善政の功も小さなものです。まして閣下、あなたのように聡明な君主の出現が稀なものであることを思えば、功罪は明らかなように思えるのですが

カエサルの出現を待つことは、全てを他人に押し付けて自分は美酒を享受する権利だけ求める暗愚でしかない。全ての人間に「カエサルになれ」と命じるつもりは無い。私だって到底カエサルになどなれる訳がない。それでも、一人ひとりの市民がカエサルの思考に意識を向け、それを支持するか選択するか自らの世界との関与を考えること、その結果の責任を社会の当事者として担うことがあるべき市民社会だ。そういう意味で、カエサルに反対した人間よりも“何も考えなかった”人間の方が罪が深いとは言えないか。
 もっとも、グラックス兄弟やカエサルをリンチで除いたの如き凶悪な野蛮は、現代以降に再び許容されることはあってはならないと信じるが。他者を拒絶し攻撃して顕示する現代人の自意識は、ローマの《寛容CLEMENTIA》とは程遠い粗暴で醜い存在なのだと自戒すべきでないか。

    * * *

『ローマ人の物語』は文庫版で読んでいるが、D論で追い立てられ始めた3年前、『パクス・ロマーナ』を最後に止まっている。大分刊行に置いていかれたので、また追いかけなければ。


'Story of ROMA' -Jan 03, 2008
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カエサルカエサル(Caesar)は、古代ローマのパトリキ系の氏族であるユリウス氏族に属する家族名(コグノーメン)。後にローマ帝国君主の称号(君主号)ともなった。この家族名のみをもって、カエサル家に属した共和政ローマ|共和政末期に活躍した独裁官、ガイウス・ユリ
2008/01/05(土) 11:34:36 | あすかの記録